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移住者インタビュー 福塚 裕美子さん

夢だった花屋を川内村で営む
福塚裕美子さん
2021年、川内村にオープンした花屋「fuku farming flowers」。みんなから“福ちゃん”の愛称で呼ばれている福塚裕美子さんが経営しています。出身は大阪府。21歳で大阪の花屋さんに就職し、その後2011年に東京の園芸店に転職。川内村を初めて訪れるきっかけとなったのが、その年に起きた東日本大震災でした。「花屋になるのが夢だった」と話す福塚さんが、縁もゆかりもなかった川内村で夢を叶えるに至った経緯や、村への思いをご紹介します。

いてもたってもいられず川内村へ

震災当時、テレビの中で流れている映像に衝撃を受けました。同じ日本で起きていることなのに、自分が今生きている世界とのギャップが凄すぎて「何かしたい!」という思いが溢れてきて。当時は東京の園芸店で働いていたのですが、同僚が川内村出身だということを知り、一緒に震災後の川内村を訪れました。
私は、ただただ自然が豊かだなとしか思わなかったんですけど、同僚は草がぼうぼうに生えた田畑を見てすごく悲しそうにしてたんです。「そうか、これは本来の川内村の風景じゃないんだ」と同僚の姿を見てやっと理解できた。そこから「川内村の原風景を取り戻したい」と思うようになったんです。自分で花屋を営むという夢があったものの、その夢は一旦置いておいて、体ひとつで川内村に移住しました。
最初は本当に大変でしたね(笑)。まず、暮らす家が無い。知り合いもまったくいなかったので、自分でなんとかするしかなかった。どうにか貸してくれる家を見つけたんですけど、プレハブ小屋で(笑)。トイレとお風呂は母屋に借りに行くという生活でした。
まずは、役場に直接「引っ越してきたんですけど、何か仕事ないですか?」と問い合わせました。住民票を村に移してくれるなら、役場の窓口業務の仕事があるよと言っていただいて。役場で働きながら、ボランティア活動などをしていましたね。

村を離れ、ドイツへ

3年弱村で暮らしながらも、徐々に「やっぱり花の勉強がしたい」という気持ちが強くなってきました。いつかドイツに行って勉強しようと思っていたんですけど、それは今かもしれないと。ワーキングホリデーの年齢制限が近づいていたという理由もあります。お金も貯めなきゃいけないし、ビザも取得しなきゃいけないし、一旦村を離れて名古屋に移ったんです。そこで花屋で働きながら、ドイツに渡る準備をしました。
ドイツに行く前に、お世話になった村の人たちにちゃんと報告しようと、サプライズで川内村を訪れました。「ドイツに行ってきます!」と伝えたあと、「日本に戻ったら、川内村に帰ってきます!」って、勝手に口が動いてて自分でもビックリ。そのとき「私は川内村に戻りたいんだ」と、自分の本当の気持ちに気づけたんです。

再び川内村へ

ドイツから戻ったあと、宣言通り川内村に二度目の移住をしました。夢だったお花屋さんも、移動販売から初めて、2021年に実店舗をオープンできました。一度目のときは“支援者”という気持ちがあったけど、今度は村が好きで自分のために戻ってきた。気持ちが全然違いましたね。まぁ、二度目も“家がない問題”にぶち当たるんですけど(笑)。大変なことはいっぱいあったけど、それでもこの村で暮らしていこうと思えるのは、これから村がどうなって行くのか見続けていたいから。川内村で花屋をやるなんて、以前の私は想像もしていなかったけど、こうして始めることができた。少しずつ変化している村をずっと見つめて行きたいんです。

この村のお母さんたちが好き

正直に言うと、田舎への移住は良いことばかりじゃないと思います。私もたくさん苦労しました。 でも、「ここで暮らしていくんだ!」と覚悟を決めて、自分が信じたことをやり続けた。そうしたら徐々に味方が増えてきました。以前は距離を感じていた人が、お店にお花を買いに来てくれたり。いろんな人がいるけど、結局私は、この村のお母さんたちが好きなんですよね。少し前に婦人会に入ったんですよ。消防団のラッパ隊にもなりました。村人としての役割を担うことで風向きが変わったなと感じています。
婦人会からフラワーアレンジメント教室の依頼が来たのも、嬉しかったなぁ。

村としても、移住者を受け入れる体制が整ってきていると感じますね。田舎への移住は、期待しすぎるとお互いに辛い部分もあると思います。だから私は「川内村が好きだからここにいます」という自然体な自分で、これからも暮らしていきたいです。
「文/遠藤 真耶」
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